事故、事件、災害、病気、自死等によるいのちに関わる体験を共有しあうことで、
誰もが誰かのいのちを包む社会づくりに貢献していきます。
毎日新聞 2023.12.19
日航機墜落 遺族の美谷島さん、命の大切さ訴え 長野で講演
520人が犠牲になった1985年の日航ジャンボ機墜落事故で次男を失った美谷島邦子さん(76)=大田区=が16日、墜落現場近くの長野県川上村で講演を行った。墜落の瞬間を目撃した同村の住民も駆けつけ、命の大切さを訴える講演に聞き入った。
機体が墜落した御巣鷹山がある群馬県上野村と隣接する川上村。事故当時、上空をふらつきながら飛行する機体を目撃した人も少なくなかった。同村は情報が錯綜する中、自衛隊や警察と連携しながら、救助作業の後方支援にあたった。
当時9歳だった次男の健さんを亡くした美谷島さんは「ママの作るマドレーヌが一番おいしいと言ってくれていた。プールでも、初めて25メートルを泳げるようになったばかりだった」と振り返った。事故後のある日、満開の桜の中、「帰ってきたよ」と手を振る健さんの夢を見た。しかし現実にサクラを見ると、花びらがピンク色ではなく、灰色に見えることがしばらく続いた。
その後、一般社団法人「いのちを織る会」代表理事長などを務めてきた美谷島さん。事故などで肉親を失った遺族同士で支え合ってきたことを踏まえ、心のケアに関して「一人一人の悲しみは点だけど、支え合うことで線になり、つながっていく。悲しみを伝えることは大切なこと」と寄り添う人がいることの重要性を口にした。
さらに再発防止に不可欠な企業側の姿勢にも話は及び、「効率や利益を優先することで、地道な安全対策の積み重ねが置き去りにされてしまうことがないよう訴え続けてきた」と語った。事故当時、レタス畑で農作業中に墜落の瞬間を目撃した川上村の農業、中嶋初女(はつめ)さん(75)は「赤いインクをぶちまけたような火柱が上がった」と回想。「一生忘れることはない。多くの亡くなった方の冥福を祈っている」と語った。 【高橋秀明】
(日航機墜落事故で亡くした次男の思い出を語る美谷島邦子さん=長野県川上村で2023年12月16日、高橋秀明撮影)
川上村の空
寄稿 いせひでこ
■ 中嶋初女さんは語らずにいられなかった。
1985年8月12日、ぐるり山に囲まれた川上村高地のレタス畑にいた。
空の羊の群が茜色に染まり始めた夕刻、突如頭上に飛行機のシルエットが現れた。
大きな影はぐんぐん降りてくるようで、窓まで見えるような近さまで迫ってきた。
機体は中嶋さんの真上を過ぎ、西の山の上で翼を大きく傾けると、V字にターンして北東の山々に向かって飛んで行った。見えなくなったと思ったら、山の稜線のひとところが赤く光った。
次の瞬間、稜線の向こう側が赤く光り、火柱が上がると真っ黒い煙が原爆のキノコ雲のように上がった。「飛行機が落ちた。助けてー、怖いよー」
中嶋さんは123便の墜落の第一通報者になった。
御巣鷹の尾根に墜落したとわかってから、路なき森をかき分けてけんちゃんを探しに行った美谷島さん夫妻は、このレタス畑の事故直前の飛行機の低空飛行の姿も、空が真っ赤に光った瞬間も知る由もない。突然、御巣鷹の焼け跡に立たされたのだ。
■ 2023年12月16日、川上村の図書館の企画で「安全の鐘を鳴らし続けて』という演題で、美谷島さんの講演が企画された。八ヶ岳連峰を望む川上村は、孫たちの住む三鷹市の施設があって、二人の孫たちは自然郷の村に林間学校でお世話になっていた。
御巣鷹慰霊登山に何度も一緒に来たし、絵本を作る過程も知っている二人に、美谷島さんの講演をきちんと聞いてもらおうと思って、申し込んだ。
16日の美谷島さんの講演が終わった後、4人の目撃者が登壇した。
それは、プログラムとして予告されていなかったので、内心驚いた。
中嶋初女さん、前の村長の藤原忠彦さん、そして、大林志免子さんと鶴田太美さんの4人だ。
ある人は、うち震える声で、ある人は「話したくもない、思い出したくもない、それでも今日は話す!!」と、強い言葉で意を決したように話した。
4人とも、まるで、昨日か先月のことのように語った。
全く思い描いたこともなかったその瞬間の風景を38年間も抱え続けた人たちがいたことに、記憶から取り外すことのできない風景があることに、私は、ただただ圧倒されていた。
■ 私は1985年直後の談話や講演やインタビューを直に聞いたことはなかった。
絵本制作の話が出てきた2015年、初めて御巣鷹の尾根を目指した。
美谷島さんに導かれるようにして、未知の世界に入って行った。
原稿もアイデイアもまだなかった。
30年以上前の出来事をどう捉えて、どう表現するか、知識も実感もゼロ以下の絵描きが頼みとするのは、「9歳の子供をこの事故で失ったお母さん」が語る520のいのちの物語だった。
美谷島さんは声を荒げたり高ぶったりしない。
いつもゆっくりと穏やかに、事実を淡々と話してくれた。
それゆえ、深い悲しみに触れた。
そして御巣鷹に登るたびに、新しい遺族と知り合い、新しい物語を聞いた。
遺族、JAL、新聞記者、報道者、友人・子供、他の災害の被害者たちが、全国から、山開きの時期や8月12日や冬の雪の前の閉山の時期に御巣鷹の尾根を目指して集まってくる。静かにゆっくり繋がって隣にいてくれる人の輪が大きくなっていくのを感じ、灯籠流しをしながら、山を登りながら、ここに集う人々の姿を見つめてきた。
■ 「その時そこにいなかった」ということ。「その時のその場所を知らない」ということ。は、大きい。どんな絵本においても。
私にとって、取材と実感と現場でのスケッチが絵本制作の最重要な条件だった。
だが、30年遅れてやってきた現場では、美しい草木と木漏れ日が事故現場を隠し切っていた。
それほどに、遺族たちとJALの社員・OBたちがともに汗を流して登山道を整備し、焼け跡の大地にヤマザクラなどを植え、山を慰霊の聖地に生まれ帰らせてきたのだ。緑したたるシオジの森は、酷暑の夏でも木漏れ日を慰霊登山者たちに優しく降り注いでいた。
■ 2015年、事故から30年余経って、木漏れ日の美しい御巣鷹の登山道を、私は初めて美谷島さんの案内で歩いた。けんちゃんの墓前に立ち、眼下に若々しい森が育っているのを見た。春が巡ってくるたびに、シラカバ、スギ、トチ、シオジ、などの木々が芽吹き、幼木が若木になり、30年の水々しい森を形成していた。
事故3年後にお父さんが植えたもみの木も天に届くくらい大きくなっていた。
けんちゃんは一人ぼっちじゃなかったんだ。
毎年春がくるたびに、若芽を広げて育つ森を見ていたんだ。
季節を越えていろんな蝶や鳥たちが遊びにきていた。四季折々の鳥の歌も聞いていたんだ。どこから翔んできたのか、フジバカマの群生まで斜面に咲きひろがると、アサギマダラが一羽二羽と舞い降りてきて、蜜を吸っていた。
黒焦げの桜や根っこ以外、30年前の事故の実感はなかなか見つけられず、描けず、それでも、その後の春や夏に、美谷島さんの優しい言葉や、JALの方や記者さんたちに助けられながら、慰霊登山を続けた。
邦子さんに提案されていた「おすたかの絵本」を当事者じゃないから「描けない」と、思い続けていた私は、けんちゃんの眼前の森のスケッチをしながも自信が持てないでいた。美しい森、優しい山の中の520の「いのちのともしび」を描くことで、「空の安全」と「かけがえのないいのち」のことを伝える絵本を二人で作り上げることができるとはこの時は思ってもいなかったのだ。残酷な事故の場面は1枚もなく、けんちゃんが見つめていた「いのちの森」と「もみの木」の絵をひたすら1枚1枚、丁寧に描いた。そして5年の歳月を経て2020年、絵本『けんちゃんのもみの木』は出版された。
■ 川上村の人たちが目撃した風景は、38年たった今も生々しかった。美谷島さんの講演の翌日、中嶋初女さんが、私たちを車で、飛行機の墜落を見届けた畑まで、案内してくれた。
あの日の夕方、十文字峠の方から突然大きな飛行機が現れて_ 梓湖報目の山の上で傾きながらVターンして
飛行機は、三国峠方面に消えていき、間も無く御巣鷹の尾根から火が上がった。
38年前の”見てしまった人たち”の消えない記憶と、見なかったけどそのあとの”地獄を見てしまった人たち”の祈りが、透明で鮮烈な青の冬空の下、川上村の畑でいつまでも寒風に吹かれ、もつれあっていた。
「御巣鷹は優しい山になりました」____
山の向こうとこっちで、風景が違っていたとしても、美谷島さんの安全への祈りは、川上の人たちにも届いていると思う。
川上村の空と御巣鷹の尾根の空は、こんなにも近くてまっすぐにつながっているのだから。
38年前の日航ジャンボ機の墜落事故で当時9歳の次男を亡くした母親が川上村で講演し、「安全は、祈ったり願ったりするものではなく、みんなで作っていくものだと思う」と訴えかけました。
川上村文化センターで開かれた講演会には、1985年に日本航空のジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹山に墜落した事故で、当時9歳だった次男の健くんを亡くした美谷島邦子さんが登壇しました。
講演では、美谷島さんが事故の悲惨さなどを語った上で、「この飛行機事故を伝えることは、健ちゃんからの宿題だと思っている。安全は、祈ったり願ったりするものではなく、みんなで作っていくものだと思う」と訴えかけました。
一方、今回の講演会では、川上村が事故現場となった上野村に隣接しているため、事故当日に墜落する機体を目撃した村民らが当時の様子を振り返る時間も設けられました。
この中で村民の1人は「飛行機が見えなくなったと思ったら山のりょう線が赤くピカッと光った」などと語りました。
講演を聞いた70代の女性は「遺族がつらい年月を過ごしてきたことや事故を伝えていくことの大切さが改めてわかりました」と話していました。
12月19日 10時28分NHK
2023年5月22日・23日
JR九州の個性豊かな列車を見ているとワクワクします。「ななつ星」の紹介の画像にある人々の笑顔が「キラキラ」としていました。
線路は、人々の夢を運ぶもの。そして、鉄道会社は、その夢をつなぐ役割があります。
駅はコミュニケーションの場所であり、地域文化の発信地。子どもたちの未来をはぐくむ場所です。古宮社長の「街づくりのデザインに貢献する」という言葉に感銘しました。
安全創造館を案内していただきました。
「過去の事故を風化させず、お客様や社員の安全ために行動できる社員の育成」が掲げられていました。この安全創造館は、JR九州の「安全の樹」のような存在だと思いました。
社員一人ひとりの「成長と進化」が、その幹を太くし、個性的な枝をさらに伸ばし、柔軟でしなやかな心を持つ「安全」を創る人を育てていくことと思います。
私は、鉄道会社や航空会社などでお話をさせていただいております。
その時安全報告書を読みます。JR九州の報告書は、安全意識の啓発、過去の事故から安全を学び、体感し、探求し、共に創り上げていく過程が書かれ、素晴らしい内容です。多様性のある組織だからこそこうしたアイディア溢れた安全創造館ができたのだと思います。
安全創造講演会で講演の様子
講演後の感想(アンケート)394人をありがとうございました。
大切にし、今後の励みにさせていただきます。
JR九州はとてもさわやかな社風でした。
若い竹がどんどん伸びていくような勢いを感じました。
そして、社員同士が互いに尊敬し合っている様子がとても素敵でした。
いろいろな会社に伺わせていただいていますが、特に感動し、「JR九州愛」がさらに深くなりました。
大自然の中を走る個性的な列車たちに会いに行きます。
引き続きご指導よろしくお願いいたします。
いのちを織る会 美谷島邦子 文
渡橋和子 写真
慰霊碑をお参りした時、田園風景の中で心休
まる空気が流れていました。
ご遺族の皆様のお気持ちが少しずつ癒されて
いく場になるとうれしく思います。
「人の悲しみや苦しみは、人でしか癒せない。」
改めてそう思います。
2023年3月17日
2012年12月2日午前8時ごろ、山梨県の中央自動車道上り線笹子トンネルで、天井板が138メートルにわたり崩落。走行中の車3台が下敷きになり、男女9人が死亡、3人が重軽傷を負った。国土交通省の専門家委員会は13年、設計や施工不良、点検体制など複合的要因があったとの最終報告書を公表。ワゴン車に同乗した5人の遺族が同年に起こした民事訴訟では、中日本高速道路と点検担当の子会社の過失を認めた判決が確定した。当時の役員を相手にした別の民事訴訟では、最高裁で遺族側敗訴が確定した。甲府地検は18年、業務上過失致死傷容疑で書類送検されるなどした中日本高速の事故当時の社長ら10人を不起訴処分。検察審査会が不起訴不当とした点検担当者2人も20年に再び不起訴となり、捜査は終結した。
中日本高速道路 追悼の碑
テレ朝NEWS 2023.3.10
2012年12月、9人が犠牲になった中央道の笹子トンネル天井板崩落事故で、運営する中日本高速道路の社員と、遺族の対話が実現することになりました。 2012年12月2日、中央道上りの笹子トンネル内で天井板が崩落し、走行中の車に乗っていた男女9人が犠牲になりました。 事故から10年以上がたったこの春、中日本高速道路は遺族と現場社員との直接の対話の場を設けることを決めました。 事故後、中日本高速道路は犠牲者の遺品や事故車両を展示する施設をつくり、幹部らによる遺族への安全対策などの説明会も行ってきました。 一方、遺族は長年に渡り、事故の原因究明などのため現場社員との対話を求めてきました。 事故で亡くなった石川友梨さん(当時28)の父・信一さん(73)はANNの取材に「10年以上がたち実現することにようやくといううれしさと時間がかかりすぎた悔しさがある」と話しています。 中日本高速は事故後に入社した社員が3割を超え、「事故を風化させず、事故の教訓を受け継いで安全性向上につなげたい」としています。
NHK NEWS WEB 2022.10.19
公共交通の事故があとを立たないなか、日航ジャンボ機墜落事故の遺族が被害者支援にあたる国の職員に講演し、北海道の知床半島沖での観光船沈没事故にも触れながら、社会として支援していく重要性を訴えました。
千葉県にある国土交通大学校で講演したのは、37年前に520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故で9歳の次男を亡くした美谷島邦子さんです。
会場には、国土交通省の地方運輸局で新たに公共交通事故の被害者や遺族の支援担当となった職員ら11人が参加し、美谷島さんは「国の役割は被害者や家族に直接向き合い、情報を迅速に正しく伝えることだ。家族どうしがつながるサポートもしてほしい」と訴えました。
美谷島さんは、現在は国の被害者支援のアドバイザーを務め、北海道の知床半島沖での観光船の沈没事故でも、被害者の家族から相談を受けている経験から、「悲しみを社会がともに引き受けていくことで、少しずつ失われた日常を取り戻すことができる」と話しました。
そのうえで、沈没事故では被害者家族の声を踏まえながら再発防止策が検討されているとして、当事者として安全を願う被害者の意見を反映する重要性も伝えていました。
参加した職員は「当事者がどういう気持ちなのか実感できた。万が一の場合は、家族がどういう状況に置かれているかしっかり聞いていきたい」と話していました。
2022.09.02 上毛新聞
1985年の日航ジャンボ機墜落事故で次男の健君=当時(9)=を亡くした美谷島邦子さん(75)=東京都=と、絵本作家のいせひでこさん(73)=同=らが2日、事故現場「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)に近い上野小で初めて「いのちの授業」を行った。2人が2020年に出版した命の重さを伝える絵本「けんちゃんのもみの木」の読み聞かせなどが行われ、児童と教職員計67人が安全の重要性や生きることの尊さなどを学んだ。
群馬・上野村の小学校で授業をする美谷島さん
美谷島さんはイラストを交えながら事故当時の健君との別れのエピソードを紹介。事故後に初めて尾根に登った際の心情を「どこかにけんちゃんがいると思って、ごめんね、ごめんね、とつぶやくのが精いっぱいだった」と振り返った。歳月とともに他の事故や災害などの遺族らとの交流が増えていったとし、「一人一人の悲しみは点だけれど、支え合うことで線になり、つながっていく」などと強調した。
絵本の題材は、美谷島さんの夫、善昭さん(75)が事故後に墓標近くに植えたモミの木。悲しみや苦しみを背負いつつ、モミの木に優しく迎えられながら尾根に登り続けた美谷島さんの心の移ろいや、モミの木が多くの悲しみに寄り添いながら成長し、命の大切さを未来に伝えていく様子などが表現されている。
「生まれたばかりの もみの木の葉っぱは けんちゃんの手のように やわらかく あたたかかった」。スクリーンに絵本のページが映し出される中、美谷島さんが言葉をかみしめるように朗読した録音音声が響き、児童らが真剣な表情で聞き入った。美谷島さんは「けんちゃんが一番願っているのは、事故を忘れないで自分や友達の命を大切にしてほしいということ。若い人に伝えるという私にできる唯一のことを続けていきたい」と力を込めた。
いせさんは生前の写真などを頼りに健君の挿絵を描こうとしたが、「本当の姿は母親にしか伝えられない」と気付き、遺品を描くという別の手法で健君を表現しようと制作過程を説明。遺品の靴を見た際に「歩きたそうにしていた」と振り返り、「私が知っていったけんちゃんを伝えようと心がけた」と思いを述べた。
授業を受けた6年の齋藤千夏さんは「遺族の人から思いを聞くのは初めて。悲しみを感じ、改めて命の大切さを考えた」と背筋を伸ばした。毎年、尾根に登り続けるノンフィクション作家でいせさんの夫、柳田邦男さん(86)=同=が登壇し、事故や犠牲者に対して想像力を働かせて考えることなどを呼びかけた。
会場に設置されたスクリーンに絵本のページを映し出し、美谷島さんの朗読音声を流した
7月31日(土)「けんちゃんのもみの木」を語る
いせひでこ絵本原画展
絵本美術館 森のおうちにて
講演:美谷島邦子といせひでこ「けんちゃんのもみの木」を語るは無事終了いたしました。
次回の予定
8月28日(土)
講演:柳田邦男「魂の歌声に耳をすまして」
13:00開場 14:00開演
ぜひ手に取っていただければと思います。美しい絵本です。
親子で「いのち」のことを話すきっかけになればと願っています。
令和3年1月16日 上毛新聞
520人のかけがえのない「いのち」が茜雲に消えてから35年になります。
飛行機雲の向こうに、ヒマワリの中に、もみの木のかざりつけをする子どもたちに、520のいのちのあかりに、満天の星空の中に、大切な人を見つけていただき、共に祈りたいと思います。
一筆一筆に 一色一色に 一字一字に 一緒に過ごした時間とそのあとの時間を重ね、魂の響きにして届けたいと思いました。この絵本を開いてくださった方が「悲しむことは、愛すること」と感じ、大切な人を亡くして迷子になった人をやさしく包む社会であって欲しいと願います。
絵本の扉を開けると、自分のペースで速度が変えられます。立ち止まることも、戻ることもできます。想像する時間に笑顔が透けてきます。大人も子供も一緒にこころを交換できる場所が、絵本には用意されています。
遺された人が、星になったいのちを抱きしめて過ごす長い時間。その日々が、少しでも穏やかでありますようにとの願いをこの絵本にこめました。そして、誰もが願う、安全で平和な社会を未来の子どもたちに渡したいと思います。 これからもご指導をよろしくお願いいたします。
2020年10月1日 美谷島邦子
作家 柳田邦男さんより、美谷島邦子にお便りをいただきました。柳田邦男さんは、「いのちを織る会」の顧問を務めていただいております。発刊にあたり、下記文面を紹介をさせていただきます。
2020.9.19 夜明けに 美谷島邦子様
『けんちゃんのもみの木』、ついに完成しましたね‼ 手にした時、表紙絵がズンズンと、私の視野全体に広がるかと思うほど、私の心全体に染み込んできました。制作の途中で何度も原画を見、校正用刷出しで見て、なじんでいた表紙でしたが、やはり製本され、1冊の絵本として完成された作品を手にして、その重さをも感じて、じっくりと見つめると、交響曲のナマ演奏を間近に聴くような圧倒されるような響きを感じます。《けんちゃんが、とうとう蘇った!帰ってきた!》そうつぶやく自分がいました。
頁をめくり、美谷島さんの文を、あらためて一行ずつ、ゆっくりと辿るうちに、ひと言ひと言に凝縮された母親の35年の歩みと思いが、はじめて読むような響きで、私の心を震わせました。何度となく、涙しました。
推敲を限りなく重ねて、完成された文章の言葉は、雪の結晶を見るように美しいです。
事故後の苛酷な日々を、決して忘れるのでなく、それを大地の土壌に敷きつめて、その上に心を研磨して、やさしくも美しい
館を組み立てたと言いましょうか。
人はなぜ辛い病いや災害や戦争の体験を書き記そうとするのか。なぜ負の体験を心に刻む人ほど、真にやさしい包摂の心を持つようになるのか。
その答を、美谷島さんは、『けんちゃんのもみの木』で示してくださったと思います。
いせは、人の顔、表情を正面から描くことを、ほとんどしない絵描きです。今回も長い制作の道程のはやい段階で描いた、星を探す場面…浮かぶ地球にたち星々を見つめる母親の場面では、顔に手をやっている姿を横から描き、焼けただれた森の上の〝孤独の河〟をさ迷う場面でも、母親は手を顔に当てています。
しかし、もみの木が「悲しみをききながら~」「悲しみによりそって~」だんだん育ってくると、母親は赤子を背負い、しっかりと愛情のある表情でわが子を見つめる姿になっています。顔をしっかりと正面から描いているのです。そして、蝶の言葉を受け止める凛とした横顔を経て、最近近くになって描いた表紙のあふれんばかりの愛に満ちた表情などの絵は、制作の後半になってから描いています。
そのことは、いせが、美谷島さんの文の懸命の推敲の経過や、そのことにかかわる美谷島さんとの会話の積み重ねの中で、自分自身の内面を無意識のうちに成熟させる、すばらしい時間の流れに恵まれたということの投影ではないかと思います。いせから聴いたのでなく、私の推測ですが。
絵本の中の最も強烈な絵である、真っ直ぐに伸びる白い飛行機雲を追う母親の姿を描いた場面を、美谷島さんがご覧になった時、けんちゃんの「サヨナラ」という声が聞こえたと、あとがきにもお書きになっているところは、私も深く感動するところなのですが、おそらく美谷島さんのそういう鋭敏な感性の表出が、いせに伝わり、描く絵を深めることになったのではないかと思います。
今、あらためて思うのですが、美谷島さんが事故後間もない、とてもお辛かった時期に、高田敏子さんの「詩の教室」で詩作を学ばれたことは、美谷島さんの心の深いところに流れていた精神性の高さを、陽の射す街道に引き出すきっかけになったのではないかと推察します。そして、その地下水流が滔々と大河になって大地の上に現れたのが、『けんちゃんのもみの木』ではないかと思うのです。
これからは『けんちゃんのもみの木』を広くいろいろな人たちに読んで頂けるように、取り組みますね。
深い感動を頂き、ありがとうございます!
作家 柳田 邦男
こんなお便りをいただきました。
沖縄 南・北大東島での「いのちの授業」
コロナ過で外出もせずに過ごしていた日々の最中、時宜を得たメールを頂き 狭ばまっていた視野がスーと開けた明るい気分になりた。
旅行会社のどんな案内にも勝る内容です。
見たこともない海の色、星野洞…沖縄と八丈島の交ざりあった文化を持つ島?独特の歴史や自然・文化のある島?どんな所なのでしょう? 行ってみたいです。
生徒の顔がすべてわかる校長先生がいて、爺やばあの話が自然に出てくる子供たちいる。美谷島さんの授業はこの子達の心にスーと浸み入ったことでしょう。この子達の心と命を守るのは私達大人の役目だよね。忙しい日々を過ごしている邦子ママへけんちゃんからのステキなプレゼントだったね!
島の情景や子供たちの表情を想像しながら何度も読み返して、私も幸せを頂きました、ありがとう。
2020.2.25~2.27
令和2年2月25日~2月27日。沖縄本島から東へ約360km離れた太平洋に浮かぶ孤島の南大東島、北大東島の小学校中学校で講演「いのちの授業」をしてきました。
26日は南大東の小学校5年生6年生29人、中学生30人。27日は、北大東小学校年生1年生~6年生31人、中学生18人に話をしました。この企画は、日本トランスオーシャン航空株式会社が昨年6月に企画した石垣島での講演の後、次は、大東島の子どもたちにも話をしてほしいという琉球エアーコミュ-ター株式会社から依頼をいただき、開催となりました。いのちを織る会の私たちは、大東島の子どもたちに会えるのを心待ちにし準備をしました。
2月25日は、那覇から島と島を結ぶ、琉球エアーコミュ-ター(RAC)で南大東島へ。客室乗務員の「島くとぅば」の挨拶が印象的でした。1900年に玉置半右エ門らの八丈島からの開拓者が渡ってきたことで島の生活史が始まったとのこと、人口1300人でサトウキビが主産業の島。島を一周海岸線は20.8km。南を案内していただいた大東観光商事のかよさんは、島の文化や歴史をわかりやすく、そして、何よりも生活に根差した視点で、島への誇りと愛情にあふれたガイドをしてくださいました。星野洞は今まで見たどんな鍾乳洞より美しかったです。
26日は、南大東小・中学校へ。112年という伝統ある学校には運動部や絵画の賞状が並び活躍の様子が目に浮かびました。詰襟とセイラー服がすがすがしく、校長先生は子どもたちの名前と顔がすぐに一致。家族のような雰囲気でした。講演の後に一緒の給食を食べました。献立を栄養学的にも学び、元気な子どもたちと話をしながらいただきました。チーズケーキのデザートは子どもたちの人気の一品。給食は校内設備で作られます。隣に座った中学3年生の女の子は、「島には高校がないのであとわずかで島を離れる、同級生は保育園から一緒、みんなと離れるのがつらい、でも、那覇の寮生活には先輩もいる、バトミントンする」と話してくれました。校舎内には、すがすがしい子どもたちの姿が溢れていました。
講演の後、北大東島まで移動。50人乗りのプロペラ機、琉球エアーコミュ-ター機は難しい島の滑走路を安定感を残して北大東空港に着陸。その後、島を回りました。雨の中、静かな空を飛ぶようなドライブでした。案内で聞いた、沖縄と八丈島がまじりあった文化を持つ島。ドロマイトという鉱物で島が覆われている。国内で唯一リン鉱山の遺跡がある。船から上陸するにはクレーンでつられる必要がある等々。独特の歴史や自然、文化がある憧れの島にこれたことにうれしさでいっぱいでした。人口700人、サトウキビ畑の作業は機械化され、厳しい自然の中で、心豊かに暮らしている人たちの姿に接したいと思いました。
26日は、北大東島の小学校中学校の子どもたちにいのちの授業をしました。木で囲まれた校舎は、やさし風が吹き抜けていました。
講演後に、小さな手が次々上がり感想を言ってくれました。「泣いてもいいんだと思ったよ」「命のこと考えたよ」「普通の生活が大切なんだと感じた」「パイロットになりたい」など。そして、最後のご挨拶で涙した先生の姿を見て涙が出ました。講演の後。給食を食べながら、小学1年生の男の子は、爺やばあの話をしてくれ、子どもたちは、チャレンジする心と柔軟な心を会話の中で見せてくれました。そして、別れ際、「また来年来てね」という言葉が今も心に響いています。
学校を後にし、北大東空港所の所長さんの案内で、リン鉱石貯蔵庫跡に再度連れて行っていただきました。古代遺跡のようなその姿にただ感動し、今度はここを歩きたいと思いました。透明な碧い海と真っ白い波、サンゴ礁の岩山を抜けて、天空を走るようなドライブ。海から吹いてくる密やかな風が印象的でした。そして、上陸公園では開拓当時のことを想像し、どこまでも透明な海は吸い込まれそうに美しく、見たことのないブルーが続いていました。その海面から亀が姿を現してくれ、歓声を上げました。
夢のように過ぎた3日間でした。大東島の皆様、素敵な出会いをありがとうございました。「うふあがりじま」の地図を見ると、今も通った道が浮かんできます。八丈文化と沖縄文化が融合し、開拓という言葉が今も島の人々に中で息づき、勤勉でチャレンジする人々の深いつながりに出会えました。北も南も個性を放ち輝いていました。
明治に入り、開拓がはじまるまでは無人島だったまさに神の島、神社でもお祭りや相撲大会など島の人たちがつながる機会が多いことも興味がわきました。太鼓をたたいたりおみこしを担ぐ子どもたちの姿が浮かんできました。たくさんの人が働くサトウキビ畑から聞こえる「ざわわ~ざわわ~」が今も耳に残ります。
北の子も南の子も真剣に話を聞いてくれました。子どもの感想にこうありました。「本当の幸せは大切な人と会えるだけでしあわせなんだと思いました」また、自分の悲しみを理解してくれる仲間がいることも幸せなんだと」そして、悲しんでいる人がいたら「一緒に雨に濡れてあげます」と。講演の内容をしつかりと理解してくれました。星空に会えなかったのは、きっと「またおいで」と雲がカーテンをひいたのでしょう。南北大東島の子どもたちにまた会いに行きます。ありがとうございました。
いのちを織る会 美谷島 邦子
京都新聞社 2019年11月24日(日)本版 朝刊ホームB 朝刊7ページ
12月5日(金)神奈川県横浜市立釜利谷小学校にて「大切なものは目に見えない」低学年・高学年に分けて2回講演をしました。
釜利谷小学校ホームページより
日テレNEWS24 7/20(土) 19:16配信
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20190720-00000258-nnn-soci#contents-body
520人が亡くなった日航機墜落事故から来月で34年。遺族が小学生たちとともに御巣鷹の尾根に登り、安全の大切さを伝えた。
1985年8月12日に日航機が墜落した群馬県上野村の御巣鷹の尾根を20日に訪れたのは、事故で当時9歳の息子・健さんを亡くした美谷島邦子さんと、東京などから集まった小学生やその保護者ら。その中の1人、内野道恵さんは亡くなった健さんの同級生で、小学3年生の息子・巧くんと一緒に登った。
子どもたちは尾根にある慰霊碑や亡くなった健さんの墓標に手を合わせた。
内野巧くん(8)「こんな事故があったんだなって」
内野道恵さん「きょう来たことを忘れないで、何かのときに来たなと思い出して生きていってくれたらいいなと思います」
美谷島邦子さん「ここ(御巣鷹の尾根)から始まる安全、安全文化を子どもたちと一緒につなげていきたいし、作っていきたい。バトンタッチしていかなければと改めて思います」
520人が犠牲となった日航機墜落事故を次世代に引き継ごうと、遺族らでつくる「いのちを織る会」は20日、事故現場の群馬県の「御巣鷹の尾根」(上野村楢原)などを見学する「いのちの授業」を開いた。犠牲者にゆかりのある人や小学生ら約70人が墓標や慰霊碑などを回り、命の大切さや安全への願いを胸に刻んだ。
「8・12連絡会」の事務局長で次男の健君=当時(9)=を亡くした美谷島邦子さん(72)らが企画し、2016年から開催している。
参加者はそろいのシャツを身に着け、尾根の登山道を歩いた。頂上付近の昇魂之碑や健君の墓標で手を合わせ、下山前には犠牲者の冥福を祈ってシャボン玉を飛ばした。
健君と同じ東京都大田区立東調布第三小に通う椎名咲月さん(11)は「命の大切さをあらためて感じた」と振り返った。客室乗務員を目指している埼玉県の木野紀香さん(20)は「同世代には事故を知らない人も多い。安全についてしっかりと考えたい」と表情を引き締めた。
村内の追悼慰霊施設「慰霊の園」にも立ち寄り、全員で黙とうをささげた。美谷島さんは「子どもたちに安全のバトンをつながなければと感じる。(日航機事故の経験から)安全文化をつくっていきたい」と話した。
TBS NEWS 7/21(日) 5:29配信
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20190721-00000009-jnn-soci
この時の活動が新聞に記載されました。こちらから
1985年の夏、美谷島健君(9)は従妹たちに会うため一人、東京発大阪行きの飛行機に乗った。リュックにはお菓子やジュースをつめ、甲子園に行くことを楽しみにしていた。
健君が乗った日航ジャンボ機は、東京から北西方向の山中に墜落。単独機としては世界最悪の航空事故となった。ただ、彼の存在は、命の大切さを伝えるメッセージとして、子供や大人たちの心に響き続けている。
美谷島さん(71)が、健君についての話を小中学校で始めたのは2016年。健君との思い出や、健君を失った深い悲しみの中でどのようにして生きてきたかを語り、事故の記憶を伝えている。
美谷島さんは、日航ジャンボ機墜落事故の遺族らで作る会の事務局長として、安全や被害者支援について、国や運輸業界の会社を相手に講演してきた。ただ健君の話を他の人に、特に健君と同じような年ごろの子供に対してすることは、つらいことだった。
「健のことを話すとすぐに泣いてしまって、できなかった」と美谷島さん。むしろ、文章などを通じて自分の気持ちを吐露してきた。「(事故から)30年ぐらいたって子どもたちに健のことを話してもいいかなと思うようになりました」
小学校3年生だった次男の健君に対する美谷島さんの思いは、愛しさ、悲しみそして後悔が入り交じっている。
1985年8月12日、美谷島さんは健君を羽田空港で見送った。健君は電車や飛行機が大好きで、飛行機の旅は、25メートルを初めて泳いだことへの両親からのご褒美だった。
1時間もたたないうちにボーイング747型機は群馬県「御巣鷹の尾根」に墜落、524名の乗員乗客のうち520人が亡くなった。必死の捜査にも関らず、美谷島さんに戻ってきたのは健君の右手とわずかな遺体の一部だった。
美谷島さんは、健君を一人で一人で飛行機にのせてしまったことで毎日自分を責めた。食事時間の間も涙が流れ、愛するものを失って生きることが死ぬよりもつらいと思った。
美谷島さんが自分を取り戻し始めたと感じたのは、健君が、あの恐怖の時間に一人ではなかったと思えるようになってから。事故から約二か月後、飛行機で健君の隣に座っていた22歳の女性の母から電話があった。「私の娘は優しい子でした。彼女は子供が大好きでした。きっと健君の手を強く握っていたとおもいますよ」
美谷島さんが、特別授業で子供たちに伝えるのは、健君がそうであったように、家族や友達にとって自分たちの命が大切だということだ。大切な人を失った悲しみは消えることはないけれど、悲しみは、同じ悲劇が二度とおきないようにするための「力」にもなるとも話す。
美谷島さんによると、「死」や「事故」といったことを直接に取り上げることは日本の通常の学校授業ではあまりない。ただ、子供たちは美谷島さんの授業の内容の意味をきちんと受け止めているようにも見える。
「健君の分まで一日でも長く生きる」とある小学生は書いた。
美谷島さんは、子ども向けの授業として健君のことを話してきたが、その力強いメッセージは、親たちも感じている。
石原幹子さん(41)は、昨年6月、息子が通う東京都の小学校で美谷島さんが子ども向けに行っている講演の内容を大人向けに繰り返すのを聞いた。
石原さんは健君が小学3年生だった時の同級生。だが、事故の記憶を引き継いでいくような役割を果たすことはないと思っていたという。甲子園に頻繁に行ったり、毎年事故の日にニュースが流れることで、健君のことを思い出したが、それ以上何かすることはなかった。
考え方が変わったのは美谷島さんの講演を聞いてからだ。「絶対もっと生きていたかっただろう健君に対して、何かできることがあるならやりたい」と話す。
石原さんは美谷島さんの活動を手伝うようになった。今年7月の親子向けの御巣鷹登山ツアーには、石原さんはスタッフとして関り、息子の秀吾君(7)も参加した。
何百もの墓標が立つ1,565メートルの御巣鷹の尾根を登ることの意味を、7歳の秀吾君が完全に分かるには、まだ少し早かったかもしれない。ただ、石原さんは事故現場に行き、同じ年頃の男の子のために手を合わせたことが息子の記憶に残ってくれたらいいと思っている。
若い世代に事故のことを伝えたいという思いは、美谷島さんの中で年々強くなっている。一方で、美谷島さんは山を登る子どもたちから「贈り物」をもらっているとも言う。
「山に登る子どもたちは、まるで健が自分の友達で、そこにいるかのように私に話してくれる。その瞬間がすごくうれしい」
今でも、授業のために原稿を作るときに、健君のエピソードを加えようとすると涙が出る。しかし、美谷島さんは、自分を単に「子どもを亡くした悲しみで涙を流している親」という風には思ってほしくないと言う。
「子どもの前では泣かないと自分を言い聞かせているし、私にとってもっと大切なのは、子どもたちが私の言葉を聞いてなにを感じてくれるか。そこから(より良い未来のために)つながるものが大事なのです」
健君のことを話し、彼からのメッセージを伝えることは、健君から与えられた一生の宿題だと、美谷島さんは思っている。「事故が起きなかったら美谷島さんは違う人生を歩んでいたのではないかと言う人がいます。でも私はこの人生しかないし、健と歩んでいく」
一九八五年八月の日航ジャンボ機墜落事故で、小学三年生だった次男の健君=当時(9つ)=を亡くした美谷島邦子さん(72)が七日、前橋市元総社町の群馬医療福祉大学付属鈴蘭幼稚園で講演を開いた。美谷島さんが事故から三年後に作った絵本を基にした紙芝居「いつまでもいっしょだよ」を使って、園児約五十人に命の大切さを訴えた。
紙芝居では墜落事故により五百二十人の尊い命が一瞬にして亡くなった事故の悲惨さにも触れながら、健君の話を読み聞かせた。最後に「健ちゃんの一番の願いは、事故のことを忘れないでほしいこと、自分や友達の命を大切にしてほしいこと」と呼び掛けた。
その後、美谷島さんと園児らは、願いを込めて折った色とりどりの紙飛行機を講堂で飛ばした。
同園の田中輝幸園長は「園児には自分のことだけでなく他者の気持ちも想像できるようになってほしい。授業を受けて、社会のことを知る一つの材料にもなれば」と話した。
美谷島さんは「親世代でも事故を知らない人が増えてきた。子どもを通して両親など多くの人に伝えていきたい」と語った。(市川勘太郎)
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東京新聞2019年2月8日
2018.7.14 日本航空安全啓発センター見学の様子
日航機墜落事故
同級生たちと初めて尾根へ ニュースウォッチ9 群馬2017年8月11日
http://www.nhk.or.jp/shutoken/miraima/articles/00891.html
別れた友と31年ぶりの再会はこちらから ニュースウォッチ9 群馬2016年8月11日
日航機墜落“32年”命の重さ伝える運動靴
2017年8月14日 12:16
日テレニュース24
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