一般社団法人「いのちを織る会」(非営利団体)とは

  事故、事件、災害、病気、自死等によるいのちに関わる体験を共有しあうことで、

  誰もが誰かのいのちを包む社会づくりに貢献していきます。

2020.5.1

 本年度7月に予定しておりました「御巣鷹山バスツアー」は、新型コロナウィルス感染症発生のため、中止することにいたします。

  安全を重視し、このような決定をさせていただきました。今後の予定につきましては、いのちを織る会のホームページにてお知らせします。

  引き続きご指導とお力添えをよろしくお願いします。コロナウイルスの早い終息を願うと共に、皆様のご無事をお祈りいたしております。

 

                      いのちを織る会事務局

沖縄 南・北大東島の小・中学校で「いのちの授業」

2020.2.252.27

令和2225日~227日。沖縄本島から東へ約360km離れた太平洋に浮かぶ孤島の南大東島、北大東島の小学校中学校で講演「いのちの授業」をしてきました。

 

26日は南大東の小学校5年生6年生29人、中学生30人。27日は、北大東小学校年生1年生~6年生31人、中学生18人に話をしました。この企画は、日本トランスオーシャン航空株式会社が昨年6月に企画した石垣島での講演の後、次は、大東島の子どもたちにも話をしてほしいという琉球エアーコミュ-ター株式会社から依頼をいただき、開催となりました。いのちを織る会の私たちは、大東島の子どもたちに会えるのを心待ちにし準備をしました。

225日は、那覇から島と島を結ぶ、琉球エアーコミュ-ター(RAC)で南大東島へ。客室乗務員の「島くとぅば」の挨拶が印象的でした。1900年に玉置半右エ門らの八丈島からの開拓者が渡ってきたことで島の生活史が始まったとのこと、人口1300人でサトウキビが主産業の島。島を一周海岸線は20.8km。南を案内していただいた大東観光商事のかよさんは、島の文化や歴史をわかりやすく、そして、何よりも生活に根差した視点で、島への誇りと愛情にあふれたガイドをしてくださいました。星野洞は今まで見たどんな鍾乳洞より美しかったです。

26日は、南大東小・中学校へ。112年という伝統ある学校には運動部や絵画の賞状が並び活躍の様子が目に浮かびました。詰襟とセイラー服がすがすがしく、校長先生は子どもたちの名前と顔がすぐに一致。家族のような雰囲気でした。講演の後に一緒の給食を食べました。献立を栄養学的にも学び、元気な子どもたちと話をしながらいただきました。チーズケーキのデザートは子どもたちの人気の一品。給食は校内設備で作られます。隣に座った中学3年生の女の子は、「島には高校がないのであとわずかで島を離れる、同級生は保育園から一緒、みんなと離れるのがつらい、でも、那覇の寮生活には先輩もいる、バトミントンする」と話してくれました。校舎内には、すがすがしい子どもたちの姿が溢れていました。

講演の後、北大東島まで移動。50人乗りのプロペラ機、琉球エアーコミュ-ター機は難しい島の滑走路を安定感を残して北大東空港に着陸。その後、島を回りました。雨の中、静かな空を飛ぶようなドライブでした。案内で聞いた、沖縄と八丈島がまじりあった文化を持つ島。ドロマイトという鉱物で島が覆われている。国内で唯一リン鉱山の遺跡がある。船から上陸するにはクレーンでつられる必要がある等々。独特の歴史や自然、文化がある憧れの島にこれたことにうれしさでいっぱいでした。人口700人、サトウキビ畑の作業は機械化され、厳しい自然の中で、心豊かに暮らしている人たちの姿に接したいと思いました。

26日は、北大東島の小学校中学校の子どもたちにいのちの授業をしました。木で囲まれた校舎は、やさし風が吹き抜けていました。

講演後に、小さな手が次々上がり感想を言ってくれました。「泣いてもいいんだと思ったよ」「命のこと考えたよ」「普通の生活が大切なんだと感じた」「パイロットになりたい」など。そして、最後のご挨拶で涙した先生の姿を見て涙が出ました。講演の後。給食を食べながら、小学1年生の男の子は、爺やばあの話をしてくれ、子どもたちは、チャレンジする心と柔軟な心を会話の中で見せてくれました。そして、別れ際、「また来年来てね」という言葉が今も心に響いています。

学校を後にし、北大東空港所の所長さんの案内で、リン鉱石貯蔵庫跡に再度連れて行っていただきました。古代遺跡のようなその姿にただ感動し、今度はここを歩きたいと思いました。透明な碧い海と真っ白い波、サンゴ礁の岩山を抜けて、天空を走るようなドライブ。海から吹いてくる密やかな風が印象的でした。そして、上陸公園では開拓当時のことを想像し、どこまでも透明な海は吸い込まれそうに美しく、見たことのないブルーが続いていました。その海面から亀が姿を現してくれ、歓声を上げました。

夢のように過ぎた3日間でした。大東島の皆様、素敵な出会いをありがとうございました。「うふあがりじま」の地図を見ると、今も通った道が浮かんできます。八丈文化と沖縄文化が融合し、開拓という言葉が今も島の人々に中で息づき、勤勉でチャレンジする人々の深いつながりに出会えました。北も南も個性を放ち輝いていました。

明治に入り、開拓がはじまるまでは無人島だったまさに神の島、神社でもお祭りや相撲大会など島の人たちがつながる機会が多いことも興味がわきました。太鼓をたたいたりおみこしを担ぐ子どもたちの姿が浮かんできました。たくさんの人が働くサトウキビ畑から聞こえる「ざわわ~ざわわ~」が今も耳に残ります。

北の子も南の子も真剣に話を聞いてくれました。子どもの感想にこうありました。「本当の幸せは大切な人と会えるだけでしあわせなんだと思いました」また、自分の悲しみを理解してくれる仲間がいることも幸せなんだと」そして、悲しんでいる人がいたら「一緒に雨に濡れてあげます」と。講演の内容をしつかりと理解してくれました。星空に会えなかったのは、きっと「またおいで」と雲がカーテンをひいたのでしょう。南北大東島の子どもたちにまた会いに行きます。ありがとうございました。

いのちを織る会 美谷島 邦子

京都新聞社 2019年11月24日(日)本版 朝刊ホームB 朝刊7ページ

12月5日(金)神奈川県横浜市立釜利谷小学校にて「大切なものは目に見えない」低学年・高学年に分けて2回講演をしました。

釜利谷小学校ホームページより


日航機墜落34年へ 遺族ら御巣鷹の尾根に

520人が亡くなった日航機墜落事故から来月で34年。遺族が小学生たちとともに御巣鷹の尾根に登り、安全の大切さを伝えた。

1985年8月12日に日航機が墜落した群馬県上野村の御巣鷹の尾根を20日に訪れたのは、事故で当時9歳の息子・健さんを亡くした美谷島邦子さんと、東京などから集まった小学生やその保護者ら。その中の1人、内野道恵さんは亡くなった健さんの同級生で、小学3年生の息子・巧くんと一緒に登った。

子どもたちは尾根にある慰霊碑や亡くなった健さんの墓標に手を合わせた。

内野巧くん(8)「こんな事故があったんだなって」

内野道恵さん「きょう来たことを忘れないで、何かのときに来たなと思い出して生きていってくれたらいいなと思います」

美谷島邦子さん「ここ(御巣鷹の尾根)から始まる安全、安全文化を子どもたちと一緒につなげていきたいし、作っていきたい。バトンタッチしていかなければと改めて思います」

日航機墜落事故から34年 次世代へ安全のバトン 児童らが慰霊登山

◎遺族が「いのちの授業」…御巣鷹の尾根
上毛新聞 7/21(日) 6:01配信

 520人が犠牲となった日航機墜落事故を次世代に引き継ごうと、遺族らでつくる「いのちを織る会」は20日、事故現場の群馬県の「御巣鷹の尾根」(上野村楢原)などを見学する「いのちの授業」を開いた。犠牲者にゆかりのある人や小学生ら約70人が墓標や慰霊碑などを回り、命の大切さや安全への願いを胸に刻んだ。

 「8・12連絡会」の事務局長で次男の健君=当時(9)=を亡くした美谷島邦子さん(72)らが企画し、2016年から開催している。

日航機墜落事故から34年 次世代へ安全のバトン 児童らが慰霊登山 JAL整備の新入社員は清掃

 

 参加者はそろいのシャツを身に着け、尾根の登山道を歩いた。頂上付近の昇魂之碑や健君の墓標で手を合わせ、下山前には犠牲者の冥福を祈ってシャボン玉を飛ばした。

 健君と同じ東京都大田区立東調布第三小に通う椎名咲月さん(11)は「命の大切さをあらためて感じた」と振り返った。客室乗務員を目指している埼玉県の木野紀香さん(20)は「同世代には事故を知らない人も多い。安全についてしっかりと考えたい」と表情を引き締めた。

 村内の追悼慰霊施設「慰霊の園」にも立ち寄り、全員で黙とうをささげた。美谷島さんは「子どもたちに安全のバトンをつながなければと感じる。(日航機事故の経験から)安全文化をつくっていきたい」と話した。

安全の大切さ伝える登山ツアー、日航機事故から34年を前に

520人が犠牲となった日航機墜落事故から来月で34年を迎えるのを前に、子どもたちに安全の大切さを伝える登山ツアーが行われました。

 20日、事故現場となった群馬県上野村では、遺族らの会による登山ツアーが行われ、東京の小学生やその保護者などが参加しました。今年で4回目となるもので、子どもたちは山に登りながら当時の事故の状況について説明を受けたり、墜落現場となった御巣鷹の尾根にある慰霊碑に献花をしたりして、事故の悲惨さと安全の大切さを学びました。

 「普段から安全に登校したり、車とかに気をつけて、安全に過ごしていきたい」(家族で参加した小学生)
 「私は飛行機を飛ばす立場にないが、どんな立場の人も安全に気をつけるというのは、できることだと思うので、子どもたちに折をみて話していきたい」(子ども2人と参加した母親)
 「事故は確かに負の遺産かもしれないけれど、でもそうではない。ここから始まる安全、安全文化を、そういうものを子供たちと一緒につなげていきたいし作っていきたい」(当時9歳の息子を亡くした 「いのちを織る会」代表 美谷島邦子さん)

 現場は事故から34年となる来月12日にも、多くの遺族らが慰霊登山を行い、安全を誓う場となります。(20日18:22)

この時の活動が新聞に記載されました。こちらから

1985年の夏、美谷島健君(9)は従妹たちに会うため一人、東京発大阪行きの飛行機に乗った。リュックにはお菓子やジュースをつめ、甲子園に行くことを楽しみにしていた。

 健君が乗った日航ジャンボ機は、東京から北西方向の山中に墜落。単独機としては世界最悪の航空事故となった。ただ、彼の存在は、命の大切さを伝えるメッセージとして、子供や大人たちの心に響き続けている。

 美谷島さん(71)が、健君についての話を小中学校で始めたのは2016年。健君との思い出や、健君を失った深い悲しみの中でどのようにして生きてきたかを語り、事故の記憶を伝えている。

 美谷島さんは、日航ジャンボ機墜落事故の遺族らで作る会の事務局長として、安全や被害者支援について、国や運輸業界の会社を相手に講演してきた。ただ健君の話を他の人に、特に健君と同じような年ごろの子供に対してすることは、つらいことだった。

 「健のことを話すとすぐに泣いてしまって、できなかった」と美谷島さん。むしろ、文章などを通じて自分の気持ちを吐露してきた。「(事故から)30年ぐらいたって子どもたちに健のことを話してもいいかなと思うようになりました」

 小学校3年生だった次男の健君に対する美谷島さんの思いは、愛しさ、悲しみそして後悔が入り交じっている。

 1985年8月12日、美谷島さんは健君を羽田空港で見送った。健君は電車や飛行機が大好きで、飛行機の旅は、25メートルを初めて泳いだことへの両親からのご褒美だった。

 1時間もたたないうちにボーイング747型機は群馬県「御巣鷹の尾根」に墜落、524名の乗員乗客のうち520人が亡くなった。必死の捜査にも関らず、美谷島さんに戻ってきたのは健君の右手とわずかな遺体の一部だった。

 美谷島さんは、健君を一人で一人で飛行機にのせてしまったことで毎日自分を責めた。食事時間の間も涙が流れ、愛するものを失って生きることが死ぬよりもつらいと思った。

 


 美谷島さんが自分を取り戻し始めたと感じたのは、健君が、あの恐怖の時間に一人ではなかったと思えるようになってから。事故から約二か月後、飛行機で健君の隣に座っていた22歳の女性の母から電話があった。「私の娘は優しい子でした。彼女は子供が大好きでした。きっと健君の手を強く握っていたとおもいますよ」

 美谷島さんが、特別授業で子供たちに伝えるのは、健君がそうであったように、家族や友達にとって自分たちの命が大切だということだ。大切な人を失った悲しみは消えることはないけれど、悲しみは、同じ悲劇が二度とおきないようにするための「力」にもなるとも話す。

 美谷島さんによると、「死」や「事故」といったことを直接に取り上げることは日本の通常の学校授業ではあまりない。ただ、子供たちは美谷島さんの授業の内容の意味をきちんと受け止めているようにも見える。

 「健君の分まで一日でも長く生きる」とある小学生は書いた。

 美谷島さんは、子ども向けの授業として健君のことを話してきたが、その力強いメッセージは、親たちも感じている。

 石原幹子さん(41)は、昨年6月、息子が通う東京都の小学校で美谷島さんが子ども向けに行っている講演の内容を大人向けに繰り返すのを聞いた。

 石原さんは健君が小学3年生だった時の同級生。だが、事故の記憶を引き継いでいくような役割を果たすことはないと思っていたという。甲子園に頻繁に行ったり、毎年事故の日にニュースが流れることで、健君のことを思い出したが、それ以上何かすることはなかった。

 考え方が変わったのは美谷島さんの講演を聞いてからだ。「絶対もっと生きていたかっただろう健君に対して、何かできることがあるならやりたい」と話す。

 石原さんは美谷島さんの活動を手伝うようになった。今年7月の親子向けの御巣鷹登山ツアーには、石原さんはスタッフとして関り、息子の秀吾君(7)も参加した。

 何百もの墓標が立つ1,565メートルの御巣鷹の尾根を登ることの意味を、7歳の秀吾君が完全に分かるには、まだ少し早かったかもしれない。ただ、石原さんは事故現場に行き、同じ年頃の男の子のために手を合わせたことが息子の記憶に残ってくれたらいいと思っている。

 若い世代に事故のことを伝えたいという思いは、美谷島さんの中で年々強くなっている。一方で、美谷島さんは山を登る子どもたちから「贈り物」をもらっているとも言う。

 「山に登る子どもたちは、まるで健が自分の友達で、そこにいるかのように私に話してくれる。その瞬間がすごくうれしい」

 今でも、授業のために原稿を作るときに、健君のエピソードを加えようとすると涙が出る。しかし、美谷島さんは、自分を単に「子どもを亡くした悲しみで涙を流している親」という風には思ってほしくないと言う。

 「子どもの前では泣かないと自分を言い聞かせているし、私にとってもっと大切なのは、子どもたちが私の言葉を聞いてなにを感じてくれるか。そこから(より良い未来のために)つながるものが大事なのです」

 健君のことを話し、彼からのメッセージを伝えることは、健君から与えられた一生の宿題だと、美谷島さんは思っている。「事故が起きなかったら美谷島さんは違う人生を歩んでいたのではないかと言う人がいます。でも私はこの人生しかないし、健と歩んでいく」

 

 

     紙芝居スタートしました。

       詳しいことは活動報告にて

      幼稚園・保育園で行っています。

      お問い合わせよりお申込みください。

      お待ちしております。



母の紙芝居、

 

命の大切さ伝える 前橋の鈴蘭幼稚園 園児50人前に講演

 一九八五年八月の日航ジャンボ機墜落事故で、小学三年生だった次男の健君=当時(9つ)=を亡くした美谷島邦子さん(72)が七日、前橋市元総社町の群馬医療福祉大学付属鈴蘭幼稚園で講演を開いた。美谷島さんが事故から三年後に作った絵本を基にした紙芝居「いつまでもいっしょだよ」を使って、園児約五十人に命の大切さを訴えた。

 紙芝居では墜落事故により五百二十人の尊い命が一瞬にして亡くなった事故の悲惨さにも触れながら、健君の話を読み聞かせた。最後に「健ちゃんの一番の願いは、事故のことを忘れないでほしいこと、自分や友達の命を大切にしてほしいこと」と呼び掛けた。

 その後、美谷島さんと園児らは、願いを込めて折った色とりどりの紙飛行機を講堂で飛ばした。

 同園の田中輝幸園長は「園児には自分のことだけでなく他者の気持ちも想像できるようになってほしい。授業を受けて、社会のことを知る一つの材料にもなれば」と話した。

 美谷島さんは「親世代でも事故を知らない人が増えてきた。子どもを通して両親など多くの人に伝えていきたい」と語った。(市川勘太郎)

 

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東京新聞2019年2月8日


     2018.7.14 日本航空安全啓発センター見学の様子

 

日航機墜落事故 

同級生たちと初めて尾根へ    ニュースウォッチ9 群馬2017年8月11日

http://www.nhk.or.jp/shutoken/miraima/articles/00891.html

 

別れた友と31年ぶりの再会はこちらから         ニュースウォッチ9 群馬2016年8月11日

http://www.nhk.or.jp/shutoken/miraima/articles/00890.html


日航機墜落32年命の重さ伝える運動靴
                                                                                                                                    2017
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                                                                                                                                      日テレニュース24

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